開港150年 ゆかりの地めぐり
大阪港ものがたり

 
 


 このパンフレットに誘われて、大阪港界隈と川口界隈を
 一日ウロウロしてみました。
 長く住んでいても初めて行くところばかりで、
 ヘ〜・・・フ〜ン・・・と感心したり、びっくりしたりの連続。
 たまにはカメラ片手にウロウロしてみるのも楽しいですヽ(´▽`)/

 2017年6月14日(水)


スタートは夢咲線桜島駅から歩いて5〜6分の天保山渡船場。 渡し舟に乗って港区天保山で降りて徒歩5〜6分で天保山マーケットプレイスの大観覧車のところにたどり着きます。すぐ横には海遊館、いつ行ってもすごい人です。  
 

この横を通り過ぎるとすごく面白い形の建物があります。  大阪文化館天保山です。 さらに進んでホテルシーガルの前にはひっそり佇む人魚姫の像があります。デンマークのコペンハーゲン港と大阪港の文化交流の印として平成7年にカールスバーグ社から大阪市に寄贈されました。こんなところにあるなんてつい最近まで知りませんでした(´;ω;`)
 

人魚姫の前を通りさらに進んで左に曲がるとレトロな建物が見えてきます。天満屋ビルと商船三井築港ビルです。現在はカフェなどが営業しています。
さらに海岸通りを進んでいくと住友倉庫群が見えてきます。新しい倉庫の更に向こうの方に古いレンガ造りの倉庫群があります。現在はカフェやレストランと外車ばかりを展示しているGLION MUSEUMと言うのが営業しています。すご〜く良い感じです(*´∀`*) ゆっくりお茶したかったんだけど、ちょっと入りにくい雰囲気でした(*´д`;)
   
     
   
     
ここだけのお話・・・・というほどでもないけどこの建物はパークの外国人キャストのための寮です(^^ゞ 10階建てで立派です(*´∀`*)    

赤レンガ倉庫を過ぎて左に曲がると右の方にこんもりとした木々が見えてきます。港住吉神社。結構古いみたいだけど、ひっそりしていました。  
   

更に進んで今度はまた左に曲がるとそこには真言宗のお寺 築港高野山釈迦院というお寺があります。摂津八十八箇所の三十三番札所です。  
   
     
 
お寺の片隅にひっそりあった「浪曲塔」 なんだろうと調べてみたら以下のように浪曲協会のサイトに書いてありました。

築港高野山釈迦院には、浪曲のルーツとして知られる「藤原澄憲(ちょうけん)碑」がありました。藤原時代、社会教化を目的として祭文(さいもん)・長歌連(現在の浪曲)を世に広めた、浪曲の元祖「少納言藤原澄憲碑(1126年〜1203年)」を、大正6年 関西浪曲界の元締二代目広沢寅吉が建立しました。なぜ、この地(大阪港)に建立されたと申しますと、大阪港千舟橋に当時住んでいた広沢寅吉が自宅敷地に港湾労働者の憩いの場として、「築港廣澤館」を大正3年建設し、浪曲が大いに栄えた歴史があります。

 しかし、第二次世界大戦大阪大空襲において、築港高野山もろとも浪曲塔は消失してしまいました。

 そののち、昭和29年に浪曲親友協会(当時任意団体)に所属の多数の浪曲師・曲師の寄付により再建・建立されました。

 この浪曲塔には、藤原澄憲を祖として明治初期これを大衆化して、京山恭安斎・中興の祖 桃中軒雲右衛門(1872-1916)、二世吉田奈良丸それを継承して浪曲界で活躍された浪曲師が合祀(ごうし)されています。

 
     
港区を回ったら次は西区川口に移動。地下鉄中央線大阪港より4つ向こうの阿波座まで乗ります。阿波座で降りたら中央大通り沿いから右に折れ旧大阪府庁跡の牌を見に行きます。  ここにはその頃大阪市庁舎江之子島支所もあったそうです。
   

そこの前を通り、木津川にかかる木津川橋を渡ります。橋のたもとには記念碑が立っています。  木津川橋から大阪市内梅田方面を見たらこんな感じ(左下)・・・意外と高いビルが少ないです。
   

 橋を渡りきったところにこんな牌が建っていました。
大阪船手会所とは元和6年(1620年)に設けられた江戸幕府の役所で、大阪湾から木津川・淀川に出入りする船の管理と、湾内に停泊している船の管理を行う船番所で、春日出の三軒家にもありました。この会所は元治元年(1864年)に廃止され、神戸海軍操練所に業務移転されました。
そう言えば、我が家の近くに同じような字の牌があるのを見たことがあります、これと同じものやったんや・・・・今度写真撮ってこよう(^^ゞ
   

橋を渡ったところの川沿いの道を左に折れるとすぐにこの古い教会が見えてきます。川口基督教会です。古いけれどとても綺麗です。 
この周辺は外国人居留地であった頃には宣教師によりたくさんのミッションスクールが作られました。大阪でも有名なミッションスクールの多くはこの地が創建の地です。 1919年に完成したのですね・・・すごいです。
   

教会の斜め前の角には川口居留地跡の牌が建っています。 居留地とは慶応4年(1868年)、旧大阪三郷の西、木津川と安治川に挟まれた川口にもうけられたもので、外国人に競売された地です。その当時大阪で最初に西洋風の住宅が建てられ、舗装道路ができ街路樹や街灯も整備されました。そこでは外国人が暮らし、馬車が行き来し、西洋式の生活が人々を驚かせました。散髪屋、洗濯屋、精肉店、パンと牛乳の店などがあり、川口居留地は文明開化そのものでした。大阪における西洋文化の窓口でもありました。
     

居留地跡の牌の前の通り、みなと通りを渡り安治川沿いの方へ行くと  聖マリア幼稚園横にひっそりと富島天主堂跡の碑があります。富島というところは川口居留地とは別に外国人雑居地が政府から認められており、日本人と中国人が住んでいました。そしてこの富島にはフランス副領事レックが明治政府に請願して、明治12年(1879年)にカトリック礼拝堂を完成させました。赤レンガのゴシック様式を取り入れた洋風建築物であったようです。今はこの碑が残るのみで残念です。
     

ここからさらに安治川沿いを進むと川のすぐ横に大阪開港の地という牌が見えてきます。  なぜかフェンスの向こうになっているんだけど工事の途中なのでしょうか。大阪開港の地とは・・・長い鎖国の後ようやく諸外国に門戸を開くことになり、明治元年7月15日大阪では川口を開港場としました。ここには運上所(税関)外国事務局などが設置されて、名実ともに開港場としての姿を備えていました。続いて明治3年には電信局もおかれ、川口ー造幣局間、神戸間の2線が開通しました。しかし川口は名のとおり安治川上流の小規模な河川港であったため、外国船の来航が減少してしまい、大阪経済も沈滞してきたため、明治30年からは現在に至る市営の築港工事が始められることとなりました。ということで港は天保山に移ることになったようです。
こんなところが大阪の海の玄関口だったのですね、フ〜〜ン(*´∀`*)
   

よく見ると安治川をはさんで向こう側には大阪中央卸売市場があります。やっぱり港だったから市場もできたのでしょうか。
さらに川沿いに進むと道端に安治川橋の碑というのを発見。カラーで綺麗です。1873年ここには頑丈で立派な橋がかけられました。大きな船が行き来する時には真ん中の部分が回転するようになっていて、磁石橋と呼ばれ大阪の名物になったそうです。しかし1885年大阪を襲った大洪水の時に大阪の多くの橋が流され、その流木がこの橋に押し寄せました。橋は流木にも耐えましたが、そのままにしておくと流木で水が遮られ大阪が浸水してしまうということで工兵隊により爆破撤去されてしまいました。
   

いやいや、歴史音痴の私にしては頑張っていろいろ読みながら、うんうんと自分で納得しながら歩いてきました(*´∀`*) ここ数年で大阪市はこういう牌をたくさん建てているようです。日常歩いている所もふと回りを見てみると思わぬところにひっそりと牌がたっていたりします。気をつけて歩くと結構面白いです。自分の街でも知らないことがまだまだてんこ盛りです。また時折回ってみようと思います。
下手くそ写真と、よくご存知の方には釈迦に説法解説゚(゚´Д`゚)゚ お付き合いありがとうございましたm(_ _)m  



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